2008年02月12日

A君の宝物

長年、子供達にバイオリンを教えている母が、あるとき
 「てごわい生徒が入ってきた」
と言っていったことがある。
小学校高学年のAくん。
ひとめでそれと分る程の自閉症と知的障害をもつ。
5分とじっとしていられないし、
話しかけても目は違うほうを見ているし、
質問してもオウム返しだし、
姿勢を正そうとすれば
 「くすぐったい!」
と逃げまわる。
知らないひとを見かけると大騒ぎになるから、
私と猫はいつも違う部屋に引っ込んでいるようにしていた。

一体どうやって教えようかと、初めのうち母も戸惑っていた。

 「だけどあの子バイオリンが好きなのよ。
  すぐに『もうイヤだ!』って投げ出すくせに、
  バイオリンを傷つけないようにそうっと床に降ろすのよ」

『好き』には偉大な力がある。
・・・バイオリンのためならば。
・・・バイオリンを弾けるようになるためならば。
ちょっとずつちょっとずつ触らせてくれるようになって、
ちょっとずつちょっとずつ我慢ができるようになって、
ちょっとずつちょっとずつ話を聴けるようになって。

A君は確実に進歩した。
学校でもびっくりするほど落ち着いたそうで、
担任の先生が
 「どうやったのか教えてください」
とききに来られたけれど、
 「ただバイオリンが好きなだけで」
としか、母には答えようがない。

A君がバイオリンを習いはじめて1年あまり。
レッスンの『おさらい会』が催された。
内輪のミニ発表会みたいなもので、他の生徒や保護者をあつめて演奏をする。
そこでA君は1時間ほどすわって他の子の演奏を聴いた。
知らない人がいる前できちんとお辞儀をして演奏をはじめた。
『ホーム・スイート・ホーム』。
紅潮したほっぺたと、大きな黒い瞳と、一生懸命動かす指と。
とてもはっきりした音で。
すごく上手に弾いたのだ。

A君は学校で
 「宝物は何ですか?」
と問われたことがあるという。
『宝物』という抽象的な言葉がなかなか理解できなかったのだけど、時間をかけてやっとこさ「いちばん大事なもの」のことだと分ると、
彼は迷わず
 「バイオリン!」
と答えたのだという。

これが小説なら、A君にはものすごい才能があって末は偉大なバイオリニストになるのだろう。
現実にはそううまくはいかなくて、レッスンの進み具合は他の子に比べたらずっと遅い。
だけどそんなことは問題じゃない。

障害をもつ子供は可哀想だと、その子の親は大変で不幸だと、
世のひとは思うものらしい。
でも、宝物に出会えたA君くらい幸せな子はいないし、
バイオリンを弾くA君を見守るご両親はとても幸せそうだった。
A君は天才じゃないかもしれないけど、じきにチェロ奏者のお父さんと合奏をするようになるだろう。
お父さんの弾くチェロの音色は、違う楽器にもかかわらず、A君のバイオリンととてもよく似ていたから。
posted by だだ at 11:33| いろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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